父、ジョン・フィッツジェラルドはクータムンドラに生まれ、14歳ぐらいの頃、家族とシドニーにやってきました。父はしっかりとした良い人で、知り合うまでは少し無口なところがありました。彼は良い父親で、いつも私たちを養うために一生懸命働いていました。長い間鉄道員だった父は、農場を持つことを夢見ていました。そして、53歳の時に夢が実現し、母と一緒に愛する農場で末永く幸せに暮らしました。

ドナルド・マッキノンとメリー・マクドナルド(旧姓)です。私の母方の高祖父母です。1837年にスコットランドのスカイ島からオーストラリアに移住してきました。当時のスカイ島の農夫生活は厳しいものでした。ドナルドは、オーストラリア人のスポンサーの支援を得て、オーストラリアに渡ることが出来ました。オーストラリアの羊産業が成長期だったこともあり、羊飼いという職業は、彼の地位を高めたようです。ゲール語しか話せない高祖父母、この地域に最初に入植した白人の一人で、ヤスの近くにあるキャバンという大きな羊牧場で働いていました。 高祖父母には7人の子供がいました。彼らが移住を決断したことで、私たち家族の歴史の流れが変わったのです。私はそれを嬉しく思います。

叔父、イアン・マッキノンです。ナンブッカ・ヘッズでの家族の休日の様子です。イアンは昔も今も偉大な叔父です。幼い頃はいつも楽しく、ルナパークや動物園に連れて行ってくれて、私たち田舎の子キッズ2人にとってはワイルドでエキサイティングな時間を過ごせました。少しペースが遅くなったかもしれませんが、今でも楽しい人です。85歳になった今、私たちが叔父の世話をする番です。

叔父イアン・マッキノンが子供用の制服を着て、警察官のふりをしているところです。長年モーリーとウィーワーで尊敬されていた警察官として勤務していた祖父の影響からかもしれません。ウィーワーの家の庭に立つ叔父は自分の父親の長所を受け継ぎながらも、自分の道を切り開き、ビジネスマンとして大成功を収めた人です。

祖母、マルゲリータ・マッキノンが、モヤおばさんを抱いている姿です。後ろには祖父のテオ・マッキノンが立っています。パラマラワの彼らの家で撮った写真です。叔母は生涯健康な身ではありませんでしたが、この写真ではとても健康な赤ちゃんのように見えます。

叔母のモヤ・マッキノンです。珍しくファミリーカーの運転席に座っています。叔母は車を運転したことがなく、興味も示しませんでした。彼女は幸せに助手席に乗り、いつも私や家族の人たちの支援に感謝していましが…。

母と父、ノエリーン・マッキノンとジョン・フィッツジェラルドです。1955年6月11日、二人の結婚式の日です。二人は49年間、幸せな結婚生活を送りました。私は、外見は父親似ですが、気質は母親似です。私の兄は父の気質を受け継いでいます。常に良い両親であり、感謝しています。

母、ノエリーンと、妹のモヤ。母はモヤより2歳年上でした。二人はいつも仲の良い姉妹で、多くの時間を共有していました。モヤは結婚をしなかったので、私は代理の娘のような存在でした。母は私に対して、特定のことはモヤに委ねているようでした。例えば、モヤはいつも私に爪を噛むのをやめるように助言してくれましたし、化粧品を買うときには彼女が最高のアドバイザーでした。モヤはとてもおしゃれだと思っていたし、とても親しい間柄でした。今でも二人が恋しいです。

パラマラワ庭で遊んでいる母と叔母。無邪気でかわいい2人の女の子が、平凡な生活を楽しんでいる、この写真が大好きです。叔母の天使のような表情が素敵です。

母とノーラが出会ったのは、ニューサウスウェールズ州のニューイングランド地方にあるウィーワーという町でした。二人は10歳でした。人生の大半を別の地域で過ごしたにもかかわらず、2人はいつもつながっていて、生涯を通じて親しい友人でした。定期的に電話で話し、しばしば2時間以上も話をしていました。私は彼女達の長年の友情をとても誇りに思っています。ノーラは私のゴッドマザーです。二人はたくさんの休暇を一緒に過ごしました。この写真もそのうちの一つではないかと想像しています。

母と父、ノエリーンとジョンが休暇中に、おそらく、トゥークリーに行った時です。 父が母に腕を回し、保護と愛情を示している様子が好きです。後ろに祖父、レスリー・フィッツジェラルドが立っています。母の帽子とドレスが大好きです。母と父は海に行くのが苦手だったので、この浜でのピクニックの一日は珍しい出来事でした。

母、モヤおばさん、イアンおじさんが写っているこの写真が大好きです。ウィーワーにあった家で、庭を見ながら撮ったものです。3人はいつも仲の良い兄妹で、母は少し気の強い姉、叔母は少しおとなしく、叔父は大成功したビジネスマンに成長ました。

母が通っていた学校、セント・ジョセフ・ビンガラ。ビンガラはニューサウスウェールズ州のニューイングランド地方にあるとても小さな町です。前列の右から2番目が母、ノエリーン・マッキンノンです。 母が学校に通っていた頃の面白い思い出話をたくさん聞いています。彼女はかなり早熟であったようです。

母、ノエリーン・マッキンノンです。母は、ニュー・サウス・ウェールズ州北西部、モーリーより東30kmにある小さな町、パラマラワ(通称「パリー」)で生まれました。私はこの写真が大好きです。母はこの若さにもかかわらず、とても元気な顔をしています。母はいつも元気な人でした。

母方の祖母の大家族です。前列の一番右が祖母です。祖母は私の大好きな人でした。写真に写っている殆どの親戚には会ったことがありません。

大叔父、レッジとドン・マッキンノン。第2次世界大戦に従軍しました。彼らにあったことは覚えていませんが、母が彼らのことを好意的に話していたのを覚えています。

左が母方の祖父、テオ・マッキノンと、曾祖父のドナルド・マッキノンです。祖父は私が幼い頃に亡くなったので、覚えていません。母はいつも祖父のことを優しい人だと言っていました。時代に先駆け、異なる宗教信者や先住民、すべての人に敬意を持って接していました。その結果、彼もまた尊敬されていました。ドナルド・マッキノンは、私たち家族の中で初めて、オーストラリアで生まれた初世代です。曾祖父は自分の父親と一緒にヤスの近くの羊牧場で働き、その後、自分の土地を手に入れ、妻との間に13人の子供をもうけました。私の母は、曾祖父のことを「穏やかな人で、とても静かだった」と語っていました。

母、ノエリーン、叔母、モヤと叔父、イアン。ビンガラの家にて。

ボランタリー救助組織(VAD)の制服を着た、母、ノエリーン・マッキンノンと叔母、モヤ・マッキンノン。二人は第二次世界大戦中ボランタリー救助組織(VAD)のメンバーでした。ボランタリー救助組織(VAD)は病院で看護師や患者達の支援活動を行っていました。

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Long-time friend of Mayu, supporter of each other’s creative endeavours,  swimmers, walkers and talkers.

Intrigued by Mayu’s early talk of Untitled Showa,  somewhere in my mind I filed away what I thought the photographs would be like.

I don’t know exactly what I filed away, I do know I was surprised and very moved at seeing them. How universally connecting, emotional and intimate they were, capturing both the grand and the everyday moments of life, the playful and the solemn. They immediately reminded me of old photographs from my own family.

I’m a fourth generation Australian of Irish Scottish heritage and have yet to visit Japan. Still the photographs of these unfamiliar people in unfamiliar places spoke to me in a language that was also mine.

Emotions, love, family, friendship, transcend continent, country and culture, to connect us at a deep human level. We are they – they are us.

I have long been drawn to the enormous power of a photograph. We may relate instantly to its content, or find it unfamiliar, but somehow we are still moved by it, touching something subconscious, known but unknown. A photograph can raise questions and equally answer questions, disturb us or soothe us.

My own photographic work centres strongly around people, observing and appreciating whatever they are doing, not wanting to direct or change, just be with them in that moment and capture something of them if they allow me. I have photographed extensively in India, knowing my first intention is to connect, communicate and then only to photograph. Gratefully, most oblige.

I have documented part of my own family background and through this felt a sense of being connected to these people from so long ago. I hope this document will go to future generations in my family, as I appreciate the photographic glimpses into the lives of my early family.

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マユの長年の友人であり、お互いの創作活動のサポーターであり、一緒に泳いだり、歩いたり、話したりする、私です。

マユが『Untiled.Showa』を話し始めた頃からこのプロジェクトに興味を持ち、どんな写真なのか、私なりに心のどこか仕舞っておいていました。

何を仕舞ったのかは正確にはわかりませんが、初めて、写真を目にした時、驚きを感じ、また、とても感動しました。これらの写真は、人生の壮大な瞬間と日常的な瞬間、遊び心と厳粛さの両方を捉えており、いかに普遍的なつながり、感情、親密さを持っているかを感じました。これらの写真を見た瞬間、私は自分の家族の古い写真を思い出しました。

私はアイルランド系スコットランド人の血を引く、4代目オーストラリア人で、日本にはまだ行ったことがありませんが、見慣れない場所で見慣れない人々が撮影された写真は、私にも通じる言葉で語りかけてきます。

感情、愛、家族、友情は、大陸、国、文化を超えて、人間の深いレベルで私たちを結びつけます。私たちは彼らであり、彼らは私たちなのです。

長い間、写真の持つ大きな力に惹かれてきました。その内容にすぐに共感することもあれば、馴染みのないものと感じることもありますが、それでもなぜか私たちはその写真に心を動かされ、知られているようで知られていない、潜在的な何かに触れることができます。写真は、疑問を投げかけることもあれば、同様に疑問に答えることもあり、私たちの心を乱すこともあれば、癒すこともあります。

私自身の写真作品は、人々を中心にしたものです。彼らが何をしているかを観察し、評価し、指示したり変えたりするのではなく、ただその瞬間に彼らと一緒にいて、彼らが許してくれれば彼らの何かを捉えるのです。私はインドで多くの写真を撮ってきましたが、その第一の目的は、人とつながり、コミュニケーションをとり、そして、そこから、写真を撮ることだと思っています。ありがたいことに、ほとんどの人がそれに応じてくれます。

私は自分の家族の背景の一部を記録し、それによってはるか昔の人々とつながっているという感覚を得ました。私の初期家族の生活を写真で垣間見ることができたことに感謝しながら、このドキュメントが私の家族の将来の世代に渡ることを願っています。

– by Katy Fitzgerald 27 July 2021 https://redsaree.wordpress.com/

-2021年7月27日、ケーティー・フィッツジェラルド作 https://redsaree.wordpress.com/

 

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